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◆会津における林政史上の桐について

―会津藩における林政史上の桐について―

喜多方市文化財審議会会長 伊藤 豊松



一、 藩政記録にみる桐の植栽とその管理
 藩主保科正之(1611−72)が最上山形から23万石の領主として、会津に就封したのは寛永20年(1643)であった。
 正之の事跡は殖産興業を始めとして税制の改革による領民生活の安定、年季奉公制の改定、老齢者の救済、産子養育制の導入と堕胎の禁止、社倉法の実施による凶作や災害時の救済など、藩政の諸改革を行っている。
 林政への施策としては藩有林の管理と漆器生産に必要な漆木の増木に力を入れ、その管理は一部先封加藤代の仕法を踏襲するものであった。なかでも会津の桐に関する記録資料としては「会津事始」(若松市立図書館蔵)の慶安二年(1645)の条に「七期八草竹林御定法之事」が載せられ、桐は要七木の一つとしてあげられている。

(史料)

一、 漆木・桑・明桧・杉・槻・松・モチノ木以上第七木と称し下知なく に伐べからず。
一、 カヤ・胡桃・朴木(ほうのき)・桐木・栗・榛(はんのき)・梅以上要七木と称し四民これを設置し子孫に伝うべく事。
一、 牡丹・  ・蓮・桔梗・蕨・山葵・独活・砥草以上八草と称し人家用足しの者無用に捨てるべからず。
一、 李・梨・柿・竹以上四壁竹木と称し、裏地屋敷成りとも長ずべし。
右条に四民永代になし要物仰せ出され処念を入れ堅く相守るべく者也。
  慶安二年十二月

右の覚によると桐はカヤ・胡桃・朴木(ほうのき)・栗・榛(はんのき)・梅の六木とともに四民(士農工商)の要木(大切な木)として植栽され永く子孫に引きつがれるべきことと記されている。
 藩政記録として知られる「家世実紀」の寛文三年(1663)3月16日の条には、百姓の屋敷内に植栽されている竹木について、先封(加藤)以来無償で伐リ出させていたが今後は百姓の年貢を納めた土地に植えられている諸木については、持主の自由とし藩の用材として使用するときは、その代価を払うことと定め、桐も同様に取り扱われている。
 その文中には、郷村百姓の屋敷あるいは持ち畑などに用木として植栽されている桐・竹などについては、山奉行の井上六太夫が改め、版画必要な時は代償なしに修めさせていたことから、桐・竹など次第に減少してしまい、近年は特に御領内の需要に供せず困ってしまったこと。山奉行からは常時植栽するよう指示されていたが、百姓の屋敷や二十歳は年貢地のため、植栽すれば日陰となり作物は不作となってしまうことや、例え植栽し増加をはかっても代償(代価)は与えられず、自分の用に役立てようと思い植え育てて伐採すれば過料金を(罰金)を出さなければならなかった。こうした理由から植栽したものや自然に生えてきた桐や竹についても全て取り捨てている状態であったという。
 藩需要の際の納木の無償や自家用材として伐採した場合の過料(罰金)といった以前からの定めについては、百姓の迷惑になっているところから、今後は藩用として農村から出させる桐や竹の植え立てを申し付けるようにと述べている。
 なお家屋の焼失や類焼の際、家の四方に植えられている槻木(つきのき)などが、家屋とともに焼けてしまった際には、焼けた槻木の代価として七貫文を藩役所に納めなければならないという定めがあり、この定めは百姓にとって甚だ迷惑なことになっていた。昨年4月3日小荒井村が焼けたときも同様であったことから、藩役人の評議によって良い定めではないとして焼失した槻木の代価は納めなくてもよいとする結論となり、以後同様の取り扱いがなされるようになった。

(史料)
 三月十六日、百姓屋敷地ニ有之竹木類、無代ニ 取上候先封より之仕来ニ候処、百姓年貢出候土地ニ在之諸木ハ、持主致自由、御用ニ付被召上候時ハ、代物可比被下旨被仰出。−以下略−
 
 「家世実紀」宝永四年(1707)正月に触れられた家中並びに郷村への家作の質素倹約の条には、桐などを含む諸木の植え立てを合わせ次のように布令ている。
 山の樹木は土津(はにつ)様御代(正之の時代)当時より、毎年三、四倍の多くを伐採し家中(家臣)や町、郷村の家数も次第に多くなっていると同時に、家屋の普請も華美(贅沢)になっている。今後は毎年家数を定め一軒といえども増やさないよう申し付けること。勿論土津様の御代に郷村に払い下げられていた員数(材木の数量)だけは取り与え、不足の分があれば百姓が自力で間に合わせるよう取り計らうこと。もし家族の人数が多い場合は、家の中を仕切るか、廊下を改造し住むことのできるようにさせること。そうすれば田畑や居宅を分割する必要もなくなってくるだろう(分家の抑制)。このことは郷村だけでなく家中も町人も同様であることを心得させ、家数の増加は認めてはならない。
 子の外、堰や川除に使用される木材についても、役人は仔細に調べ勿論土津様御代の木数を考え、古の例に帰るようにすること。諸事念入りにし古い時代を手本(模範)とするように。また城下近山についてはかつての林奉行を復活させ山林を守らせ、近山の材木が必要なときは、よく調査しこちらの抱える樵に命じ請け負わせ、山を荒らさないよう計らうこと。
城下のほとり及び近山の空地には毎年かわらず杉・桧・栗・槻(つき)・槙(まき)・桐・橡(とち)などを植え立て繁茂させるように。山林の手入れが不十分であれば、材木や薪炭にまで不足し不自由になり、お上も庶民の生活も困ることを知り、よくよく念を入れること。

(史料)
山木之儀、土津様御代よりは毎年三四倍も多く伐り取候由、畢意家中、町、郷村の家数次第ニ多く成、旦善請等美麗になり候故に候。(以下略)

 「家世実紀」宝永四年(1707)5月15日の条には、山奉行の外にかつて置かれた林奉行を置くこととし、城下近山の材木を管掌せしめ、毎年怠けず杉・桧・栗・槻(つき)・槙(まき)・桐・橡(とち)等の植栽を行い繁茂させうよう山林役所の山奉行・林奉行に指示している。  
山林役所には、上記ニ奉行の外に御林方が置かれ、山林の保護増木を計るほか、林木の売却処分等の仕事を担当させていた。  
右の山奉行、林奉行、御林方の下には下役として山同心や山守が置かれ、盗伐の監視をはじめ林木の育成状況の把握、山入者の取り締まりなどをさせている。  
「家世実紀」元文五年(1740)11月12日の条には、会津から江戸や他国(他藩)に輸出されていた材木の内、杉・姫松・二葉松・桐・桂・朴・槻の八品は留物として藩外に売り出すことを禁じているが子の中には右に見るように桐もあげられ保護されていた。  
(史料)  
近年、諸木払底ニ相成り、国用之差支相聞候、依之当時越国出し材木必至と相止候(以下略)
 
「寛政二年より文化11年迄萬被仰渡覚書(よろずおおせわたされおぼえがき)」(会津藩史 東北振興会編)の文化5年(1807)7月の条には、大原六太夫が諸木の植立方主役兼務に命ぜられ、御国産第一の漆木を始めとして、杉・桐・樟・桧その外柿・大豆・こうど・胡桃・桑・茶・からむし・薬種・果物などは他邦に出し利益になるものは、何によらず、空地を見つけ十分に植え立て、なかでも果物類は御用地(年貢地)に障りのない場所であれば、全て植えつけ収益を考えるよう指示されている。

 (史料)
 大原六太夫儀、諸木植立主役兼務被仰付候・・・(以下 略)

 天保十五年(1844)郡役所から出された諸木植立の触れについて「天保十五年申辰歳日記」に中に桐について次のように記されている。
 諸木の植樹については、前々から触れられ組組にあっては、それなりの計画のもとに世話をしていることは承知しているが、植樹の指導の奨励を止めてしまえば、国力の増強もおぼつかなくなってしまう。そのため役所はもとより係りの者には、あらためて言い聞かせ、出役させて、手当(苗木から成木への世話)の様子などをよく見届けるなど、充分に心をかけてほしいと述べている。
 桐は領内いづれの土地にも適しているが、近年はその数も減少してしまっている。桐は一度植えれば伐りとったあとには、早々に生え出る木でもあり、特別の労費もかからない木であることから、各家ごとに五本づつは植えて置くように、成木となった折には、家の修復、繕いに使用したり、家計費を補う収入源ともなるため、出来るだけ本数を増やすよう植樹を計ること。さらに但し書きには、各家々は五本づつはかならず植え立てることを勧めるよう配慮することも追筆されている。

 (史料)
 天保十五年申辰歳日記
 諸木植立の儀、前々より厚御世話有之、組組品々取計も在之候得共、・・・(以下略)

会津藩の諸木に対する林政の推移をみると藩主加藤の時代(1628−42)には農民が植栽し育てた桐や竹についても、藩の意のままに伐採させ、その代償さえ支払われていなかった。しかし保科正之の就封(1643)後は、藩の用に供される桐・竹についてもその代価を償うことを定め、合わせて増木を計るように命じている。
保科就封後の藩は、林政の機構を整備し藩有林や農民の共有林の別を明確にし、その管理は山林役所に委ねている。山林役所には山奉行や御林奉行が置かれ、地方には代官から郷頭(寛政改革以後は直接肝煎りへ)へ郷頭から肝煎りへとその管理系統を整えている。更に諸木の濫伐防止にも力を入れ、杉・姫松・二葉松・桐・桂・朴・槻などの八木を留物に指定し他邦への輸出を禁止している。盗伐についても、藩有林、民有林の区別なく厳しく監視させ正保二年(1645)には諸木盗伐の制を規定し、盗伐者は曲事として過料(罰金)に処し、もし過料金を支払えない場合は、妻子を売ってまでも早急に納めよとの厳しい定めを触れている。(「家世実紀」5月9日の条)
 盗伐の発生や山林への出入りの訴訟などの問題処理は、山林役所が主に担当し山同心や農民から出ている山守などの派遣による調査をもとに処理されていた。
 なお幕末における藩の諸木植栽奨励策として、植栽に功労のあったものには上下帯刀御免や褒章を与えることを定め、更に嘉永四年(1851)には、農民の植栽に対する伐採後の収益の分配率を役所が三、農民が七の割合とする三公七民制を執ることを山林奉行から布令ている。

ニ、風土記・風俗帳にみる桐 
 現存する村々の風土記・風俗帳の表題をみると、寛文五・六年(1665〜66)の編纂になるものは、村名や組名を頭に何々風土記・萬覚帳・風土記之帳・土地帳といった名称でまとめられ、貞享ニ年(1685)のそれも同様に何々町風俗習・風俗改帳・地下風俗覚書・萬集書・旧例改帳など村によって異なる表題がつけられている。文化四年(1685)の風土記もまた同様で、何々風俗帳・地志方風俗帳といった名でまとめられているが、文化六年(1809)に編纂された風土記は、領内全てを包括し、「新編会津風土記」としてまとめている。
 右の風土記・風俗帳の記載内容は「新編会津風土記」を除き、表題の異なるのと同様記載内容、項目を異にしている。
 「寛文六年会陽町街改基・惣町」には、若松の町の遠隔・釜数・男女人数・馬数・職業種類とそのトすう・寺の宗派・市日・旧礎石・名所・神社・堂・山・川・橋などをあげている。また寛文五年(1665)の「大塩組風土記之帳」には、十五か村分の村毎の道程・伝説・宗教・人口・馬・田畑の土性・品種・年貢・小役・土産・社寺・山・坂・川・古城後・木地小屋・名石などとなっている。  
本題の桐の植栽の有無を庄司吉之助編(歴史春秋社刊)になる「寛文風土記」十三編、「貞享風土記」十八篇、「文化風土記」十一篇、合計四十二編、四十二か村の樹木・林木の項をみると僅かに四か村での植栽しかみることができなかった。
 寛文五年(1665)「稲川領牛沢組郷村萬改帳」では沖大江村と塔寺村(現在坂下町)の二か村に見え、貞享二年(1665)の「町風俗帳」大町(若松)の条に一か所・文化四年(1807)の風俗帳では、現在、新潟県の行政区となっている「蒲原郡小川之庄萬改帳」、記載村数七十六か村中一か村のみが桐の植栽をおこなっていたことが記されている。右牛沢組郷村万改帳の沖大江村の項には「栗・胡桃・李・桐・槻・榎・杉・白槙有り」と八木をあげ、その一つに桐をあげている。塔寺の場合は、「栗・柿・梨・李・桐・槻・榎」の七木の一つとして桐が記載されている。
 貞享二年(1665)の風俗帳では、「町風俗帳大町」の条に「桐木・屋敷にこれ有り候て、御用の節召し上げられ候、これにより大切に存じ、只今は植え申さず候」と記され、屋敷内の桐の成木は自家用材としては使用できず、藩からの支持があれば納めなければならなかったことが窺われる記事となっている。
 なお製品の材料となる用材(木)は記載されていないが、寛文五年(1665)の「会陽町街改基惣町」若松城下後町の項に、下駄作り四件と記され、下駄職人の存在を教えてくれる。この四軒の職人は文化四年(1807)の風俗帳にも「足駄指」の名で記載されており、継承されていたことが知られる。
 更に文化四年(1807)の「田島組・高野組・川島組・尉火斗組風俗帳」の川衣村(若松から十里)の職業の条に「下駄・足駄・栗生沢村・独鈷沢村にて少々拵え在在へ売り出し申し候」と書かれ、周辺地域に販売していたことを教えてくれる。

寛文(1661)から文化(1804)年代までの会津領内における、村勢要覧に近い記載内容をもつ風俗帳や村改帳のなかに、桐の植栽している村の数の少ないことや、木役として課税対象にもなっていないことを考えると、藩政時代の用材としては、それほど重要視されていなかったのではないか。ただ幕末嘉永年代(1848)に入って、藩が上記にみたように各戸五本づつの植栽を指導奨励していたことから、幕末以降、明治に入ってから需要の増大をもたらすことになったのではないかと考えられる。