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◆桐と桐下駄ものがたり

−桐博だよりVol.1(H5.10.29)より抜粋−



(財)遺芳文化財団日本はきもの博物館 主任学芸員 潮田 鉄雄


下駄は、五〜六世紀(古墳時代中期)の池守遺跡(埼玉県行田市)から歯間が八の字に広がった歯下駄が出土しているのが今のところ最古の下駄といわれている。 樹種は不明だが桐ではないらしい。 多く古墳から出土したり古墳の副葬品として滑石製ミニチュア下駄が出土するのを見ると地方豪族に権威の象徴としてはかれたようだ。

奈良時代には平城宮跡から桧製の子供用の下駄(当時はアシダと言った)が出土しており、都の裕福な人々に諮れた。こ の頃には、前緒穴が中央にあけられて、歯の片べりを防ぐため左右をはきかえたり、下駄の後面があたらぬ歩行を目的とした下駄になったらしい。 当時は、柾割りの利く杉や粗い二等辺三角形の鋸歯である小さい横挽き鋸で歯を挽くため丈夫な桧が多く用いられた。

13世紀(鎌倉時代前期)には、歯の上部に凸起(ほぞ)を切り出し台に差し込んだ露卯差歯高下駄と一本の連歯高下駄も出現している。 いづれも杉や桧などの雑木を用い、歯は下方へ広がった台形であった。

平安末期の「扇面古甲絵下絵」や鎌倉時代の「餓飢草紙」、江戸時代前期の浮世絵をみると、洗濯や水汲み、排便などの仕事に、衣服の裾を汚さず、汚物のはねかえりを防ぐために 高下駄(当時はアシダと言った)をはいている。当時の下駄は足の下にはいた板であり、物を支える水平なはきものであった。

江戸時代初期に下駄は、け太と呼ばれ、下踏・下駄と宛て字されたが、物を支える水平様のケタ(桁)から名付けられ、下に踏みはき、汚物を防ぐのにはかれたので、 下等のつまらぬはきものの意で下駄の字に固定した。
十七世紀後半から十八世紀の初めに、南部(岩手県)や出雲(現島根県)の和鋼生産が盛んとなり、切れ味のよい日本刀の鋼(はがね)が作られるようになると、大工や下駄職の工具も進歩した。
江戸中期の大工道具を記した「和漢三才図絵」(1712年)や「和漢船用集」(1761年)「人倫訓蒙図彙」(1690年)をみると、差歯下駄の溝を正確に挽く胴付き鋸や下駄の表を平らに削る台鉋、 鼻緒の穴あけ壺錐、これを取りつける舞い錐、下駄材を真っ直ぐ横挽きする長方形の先切り鋸(それまでは木の葉型鋸であった)、溝をきれいに彫るオイVのみなどが出現している。
この頃には会津若松が鋸の産地となり、若狭の武生や越後の三条が大工道具の産地となっている。
天明年間(1781〜89年)には、江戸で大洪水が、京都では大火などがあり、宝永年間(1704〜10年)には江戸や京・大阪に下駄屋街ができ、不特定の町民に桐下駄を売る店を構えるようになっていた。

桐は落葉高木で中国南部や韓国の欝陵(うつりょう)島、北九州の産地に自生する南方植物だが、これが日本に伝わり北上し、十七〜十八世紀には南部や会津でも栽培され、 寒冷地の桐として木目の詰まった上物の桐を育てあげたものであり、鼻緒や表の材である竹皮の産地でもあり、工具も発達したものと思われ、今日でも南部桐、会津桐、越後桐が最上とされている。
こうした桐の植栽や工具の進歩により、白い肌で、木目が細かく、光沢があって美しく、柔らかく、細工がしやすく、狂いがなく、足障りがよく、 軽くて割れにくい桐がタンスや歯小物の細工にはじまり、やがて下駄にも桐が使われるようになった。

「正式撰」(1695年)に、桐の木の下駄、「六日飛脚」(1679年)に、桐の木履、「好色一代男」(1682年)に、桐の引下駄とあり、十七世紀後半(江戸時代中期)には桐の連歯下駄が出現している。
「当世風俗通」(1772〜80年)には、下駄は桐のまさ(柾目)が良し、「桐の本磨き」とあり、「田舎談義」(1790年)には、丸木きりの下駄、「品川楊枝」(1799年)には、柾台の下駄とあるので、 十八世紀後半には、直径15センチ位の丸太から一個取りした柾目の桐下駄が作られ、履かれるようになり、鼻緒も麻と稲わらを芯に赤く染めた皮緒がすげているので、鼻緒業者も出現していたらしい。
千利休没後の二百年忌(1790年)には利休ブームが起こり、万頭や木櫛、下駄、色にまで粋な意味で利休の名を学者が付けた。
「当世風俗通」(1772〜90年)に木履(ぼくり)桐の本みがき、鼻緒は黒か青添え、さし下駄も良しとあり、この頃、差歯の低下駄が創作され、関東では日和下駄(晴雨兼用下駄の意)、 関西では、利休下駄(一本二歯の晴天用の連歯下駄と雨天用の差歯高下駄の中間の下駄の出現で、晴雨にはける粋な下駄の意で利休をもじって効用が長いという意味も含め 利休下駄と下駄屋が名付けた)が、「風俗粋好伝」(年代不詳)や「南遊伝」(1801年)に初見される。
「短茸薬葉」(1786年)には、焼杉のこっぽりが記されており、十八世紀後半には前のめりの下駄が出現し、摺り足ではく、他所行きの泥はねの上がらない下駄もはかれるようにある。
「浮世風呂」(1809年)には前のめりで台の中央を二つに切り皮でつないだ中折り下駄も出現して、歩きやすい下駄の出現をみる。
「古今百勇鹿」(1812年)には、前のめりの一本三歯の三つ足の駒下駄の記事があり、遊女にはかれた。これが江戸末期になると犬の高い三本歯のおいらん道中下駄に変化する。

こうして、桐下駄は上物とされ、歩行を目的にはかれるようになるが、明治時代までは都会の裕福な人しかはけなかった。
広島県福山市松永で雑木による機械作りの下駄が大正時代に造られ庶民に下駄が普及した。 昭和30年以後、靴の普及で下駄がはかれなくなり、今日手作りきり下駄の職人は減り、桐下駄は米一俵と同じ二万円もする時代となった。
以上、桐や手作り桐下駄(市販品)の出現や、歴史的推移、種類などを記述したが、終わりに、各地で使われた特別注文品の芸能や労働用の桐下駄をいくつか上げてみる。

新潟県の桐下駄

会津地方と並び西隣りの北越地方は越後桐で知られた所である。 南魚沼群大和町大崎には、桐のコウラ(台)に高さ21センチの台形の杉歯を二枚差した差歯高下駄のオオゲタがある。 ここは雪菜の産地で、畑の畝間に雪解かしの清水を流して引き抜くとき、足が濡れて冷たいので、三月上旬にはかれた。 桐は水濡れに軽く、歯が高いので仕事がしやすかった。

白根市は江戸時代の文化年間(1804から7年)から、梨栽培が行われているが、江戸の昔から梨の間引きや袋掛けに背丈を補うはきものとして、桐台に杉歯のナシゲタがはかれて来た。 当初は一本の高下駄であった(材不詳)が、明治期には桐台に杉歯を差したろ露卯(ろぼう・歯の突起が台表に露れた)差歯下駄となり、大正期には桐台に杉歯を下方に八の字に広げ、 歯間に支木を打ちつけたものとなり、昭和になると桐台に杉歯を八の字に差しこみ、葉の両横に安定のための縦材となった。 明治から桐のアシダ(タカゲタ)に変わり、地域的改良がなされてと独自な梨下駄として今に用いられている。歩く脚立?として仕事の能率を高めるように工夫されたが、桐産地の逸品と言える。

新潟県の日本海岸、柏崎市から糸魚川市、更に富山県魚津の漁村にハマゲタが江戸の昔からはかれている。 文政七(1824)年の「筆のまにまに」に越後路の板下坂として前後左右に四孔をあけ前半分に鼻緒をすげた図も揚げられている。
このハマゲタの材質には桶屋が余材で作った杉製と下駄屋や漁民が手作りした桐製とあり、緒穴も三孔と四孔式とある。 木崎市や柿崎町のハマゲタ(浜下駄)は四孔式で、台は桐の厚板。 前孔とニケの横穴に鼻緒をすげて摺り足で浜歩きや製造作業にはいた。 引き摺るのでズリゲタ、砂浜を歩く音からパスゲタ、砂浜専用なのでスナゲタとも呼ばれたが、前緒穴が欠損した時は後の中央にあけた穴を前緒とし、前後を逆さにしてはける省資源の下駄である。 ここでも水仕事なので軽く減りにくい、足ざわりがよいなど桐の特性が生かされている。 今ではゴム草履や他のはきものも出現して用いられなくなった。
糸魚川市押上では漁民が鋸や鉱でぽっくり下駄の底のない台を作り、三孔をあけ鼻緒をすげた桐のハマゲタを昭和三十年頃まで、地曳き網漁や網干し砂利浜のしごとなどにはいた。 桐は衝撃を緩和する役目も持っていた。

新潟県上越地方にユキゲタ(ハコゲタ)が江戸の昔からある。天保三(1822)年の「耽奇漫稿」に、ハコゲタほかきりの各種雪下駄が描かれているので、十八世紀に出現したものであろう。 このハコゲタは後歯だけのある一本連歯の桐製雪下駄で、厚い台裏を箱状に刳りぬいて裏蓋を針止めした歯間が三角形、歯は下方へ広がった台形をした下駄で、 雪国の桐下駄が使用者の注文を聞き雪が挟まらず、雪に埋らず転ばない軽い下駄として創作された、越後独特の雪下駄である。 こうした伝統的な桐の雪下駄も昭和三十年頃まではかれたが、デパート、スーパーの進出や雪をどかす消雪パイプの布施により今では老人の外出にたまにはかれるだけとなった。

仕事の桐下駄

旧、日本専売公社の原料工場で昭和三十七年頃まではかれた桐製のタバコゲタ(葉煙草踏み均し下駄)がある。 長さ23×幅11×厚さ4センチの桐の厚板に黒ビロードの鼻緒をすげたもの。 葉煙草の再乾燥作業の時、乾燥機から出てきた葉煙草を粗密がないよう樽詰めするのに、この下駄をはいた従業者が樽内に入り込み葉煙草を均一に詰めこむのにはいた。 の厚板は体重とともに、葉煙草に傷をつけず、平らに押し詰めることができた。工場生産の煙草も人力や桐下駄で細かな血の通った仕事をしたものであった。 栃木県小山市や静岡県盤日市に原料工場があったが、各々の土地の手作り下駄職人に注文して作ってもらったものだ。

奈良県都祁(つげ)村は、京都の宇治茶と並ぶ、大和茶の産地として関西では知られた所。 この都祁村で昭和初期まで、チャッキリゲタ(茶切り下駄)が用いられた。 桐の台に先尖りの樫歯を三本差し込んだ差歯高下駄の一種である。 茶を売る茶が、乾いた葉茶を荒切りするのを用い、荒切り茶は茶臼で抹茶にされた。 多分樫歯の差下駄からヒントを得て、下駄職人に創らせたものだろうが、製茶は手もみ以外に足でも作業した。 足や桐下駄の踏み具合で、適度な大きさに刻まれたもので、心の通った作業であった。

香川県志度町は、四国では知られた桐下駄の産地で80年の歴史がある。 元は地桐を用いたが、今では会津の桐を仕入れている。 この町で特に作られているのが寿司職人のはく板前下駄である。 普通の高下駄(アシダ)より歯の高いもの。機影の台に高さ12センチの樫歯を差し込んだ差歯高下駄である。
寿司屋の板前が調理場の水仕事に足濡れを防ぐのにはくのだが、にぎり寿司は生きの良さが売りものなのでカウンター(板場)から職人の背丈が大きく見え、 にぎった寿司を客前に上から下へチョコンと出すにもこの高さが必要であった。 桐の軽いことだけでなく、床でキクキクと音がするのも生き(粋)を演出する。

芸能の下駄

東京の歌舞伎座ではかれる桐下駄に各種ある。
歌舞伎十八番の助六で揚巻(吉原の遊女)が背丈を大きく見せて外八文字のおいらん道中をするのに竹皮表桐に黒漆塗りの三マイバイゲタをはく。 主役のおいらんを目立たせるための工夫であり、大きな台形の桐下駄をはいて転ばずに歩けるよう、軽い桐を材としており、足を引き立たせる下駄でもあった。
同じく助六で僧の意休がはくのが焼き桐の前のめり一本三歯のミツバゲタである。 桐を焼き紫色の鼻緒をすげて高級感を出し、前のめりなので摺り足に歩くので静かさを出している。

同じく伽羅(めいぼく)先代萩では、足利頼兼役がはくのが焼き桐前のめりの二つ歯の連歯下駄であるノメリゲタをはいている。 殿様なので、焼き桐と紫色絹の鼻緒が高級感を出し、台歯の高さが10センチ余りと高いので殿様のかんろくを出している。

静岡県島田市に大正四年頃、旅回りのサーカスがやってきたが、この時に道化師が綱渡りにはいたのがドウケシゲタである。
昭和六(1769)年の「絵本簡板雛形」では、普通のアシダ(差歯高下駄)で綱渡りをしているが、大正になると平面が小判型の四センチもある厚板の中央裏に高さ四十五センチもある桐の丸太をとりつけ、 台の側面に赤木綿を下げたものと変わっている。 二十から三十メートルもある高所の綱の上で、この道化師下駄をはいて渡るには、相当の熟練がいったことであろう。ここにも軽くて足許の安定?した桐下駄をはき、観客をハラハラさせるプロ根性が、たのもしい。

特注の桐下駄は仕事の効率を高めるために改良工夫されて個々に創作されてきたのであった。




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