会津 桐の博物館 オンラインショップ


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◆桐下駄の歴史など、なんでも百科



◆桐下駄の歴史

桐の下駄が登場するのは17世紀後半(江戸時代中期)


@ 何時頃から下駄と呼ばれるようになったのか(抜粋)
「古事類苑」の特に下駄に関わると思える項目をひもとくと、下駄が目につく「倭名類聚鈔」、「伊呂波字類抄」、「下學集」はそれぞれ「屐」を引用し、足下、足駄と同じとしています。
「享保集成絲論録」の元禄12年9月の頃には「右の輩下馬より、げた、あしだはき候儀…」     とはじめて、「げた」が現れれます。
以後「我衣」になると「草履下駄」「コマ下駄」「地下駄」「女下駄」「塗下駄」「下駄足駄」と下駄一色の勢いとなります。

A 下駄はいつ、だれが履いたか(抜粋)

いったい下駄はいつ、どんな時に、だれが履いたのだろう。  
平安時代から中世のことを描いた絵巻物は数多く残されており、そのいくつかを見ると、身分のはっきり判るものでは、裏頭姿の僧兵を含めた僧侶がもっとも目につきます。
古代から、中世にかけての絵巻をみても庶民と思える人々は、裸足が圧倒的に多いようです。
それが古代から中世のかかる頃、洗濯女や物売り女を含めて、どちらかといえは身分の高くないと思える女や老人が履くようになり、13世紀になるとき貴族と思える人物や田舎の武士までもが履くようになりました。

B 下駄はどこから来たか。(抜粋)

中国にも下駄はあったようです。 後藤守一氏は、中国の「釈名」の「屐は両足を支え、泥をわたるもの」に注目し、また「本草網目」に「木屐の下に歯のあるもの」とのことから、これを台の下に歯を持ついわゆる下駄にちかいものと解釈しました。
しかし「三歳図會」を見ると、かつて私達がよく履いた「ツッカケ」に歯がつけられ、その上、緒は指先で挟むものではなく、足の甲を差し込むように幅広で、その両脇を繋いでいるというもので、これは下駄とは言えないし、「倭名類聚鈔」の編者などは中国から「屐」の文字を借用したと考えました。そのことから後藤氏は下駄は「…全く自生文化の現れと見るべきである。…」としました。
しかし、中国大陸から米と共に我が国に入ってきたとする考え方もあります。5000年ほど前とされる浙江省の寧波市の遺跡から、木製の鋤や鍬と共に木下駄が発見されたのです。

C かつての履き物は下駄が主流だった(抜粋)

敗戦を迎え否応なしにアメリカ文化が入ってくると、私達の衣食住は大きな影響を受けました。
衣の方では、伝統的な着物も、日常着ることもなくなり、特別の日のものに変わってしまい、それにともない下駄と草履が靴となりました。
今の状態ではどんなことがあっても、また着物や下駄が昔のように、日常的に利用されることはないでしょう。
それは私達、自ら選択したことであるので間違ったことではないでしょうが、かつて下駄が履き物の主流であったことも、心のどこかへ焼き付けておいてもよいでしょう。


◆ 桐と桐下駄ものがたり 

桐や手作り桐下駄の出現、歴史的推移、種類などを記述 


下駄は、五〜六世紀(古墳時代中期)の池守遺跡(埼玉県行田市)から歯間が八の字に広がった歯下駄が出土しているのが今のところ最古の下駄といわれています。 樹種は不明だが桐ではないようです。

奈良時代には平城宮跡から桧製の子供用の下駄(当時はアシダと言った)が出土しており、都の裕福な人々に諮れた。

江戸時代初期に下駄は、け太と呼ばれ、下踏・下駄と宛て字されたが、物を支える水平様のケタ(桁)から名付けられ、下に踏みはき、汚物を防ぐのにはかれたので、下等のつまらぬはきものの意で下駄の字に固定しました。

宝永年間(1704〜10年)には江戸や京・大阪に下駄屋街ができ、不特定の町民に桐下駄を売る店を構えるようになっていました。
こうして、桐下駄は上物とされ、歩行を目的にはかれるようになりますが、明治時代までは都会の裕福な人しかはけませんでした。(抜粋)


◆手作り桐下駄の製作工程

明治から大正時代にかけて桐下駄はこんなふうに作られていた


1.玉切り 2.木取り 3. 削り
4.墨付け 5.歯型打ち 6.歯挽き
7.荒歯挽き 8.丸 きの荒 9.歯裏削り
10.面取り 11.歯 き 12.丸 き
13.穴あけ 14.裏 き 15.はな打ち
16.横削り 17.丸め 18.磨き仕上げ

◆桐下駄の種類

おもしろい、ちょっと変わった桐下駄を紹介

 

仕事の桐下駄

旧、日本専売公社の原料工場で昭和三十七年頃まではかれた桐製のタバコゲタ(葉煙草踏み均し下駄)がある。 長さ23×幅11×厚さ4センチの桐の厚板に黒ビロードの鼻緒をすげたもの。 葉煙草の再乾燥作業の時、乾燥機から出てきた葉煙草を粗密がないよう樽詰めするのに、この下駄をはいた。

桐の茶切り下駄

奈良県都祁(つげ)村で昭和初期まで、チャッキリゲタ(茶切り下駄)が用いられた。 桐の台に先尖りの樫歯を三本差し込んだ差歯高下駄の一種である。 足や桐下駄の踏み具合で、適度な大きさに刻まれたもので、心の通った作業であった。

桐の板前下駄

香川県志度町で特に作られているのが、寿司職人のはく板前下駄である。 寿司屋の板前が調理場の水仕事に足濡れを防ぐのにはくのだが、にぎり寿司は生きの良さが売りものなのでカウンター(板場)から職人の背丈が大きく見え、にぎった寿司を客前に上から下へチョコンと出すにもこの高さが必要であった。

芸能の桐下駄

歌舞伎十八番の助六で、揚巻(吉原の遊女)が背丈を大きく見せて外八文字のおいらん道中をするのに竹皮表桐に黒漆塗りの三マイバイゲタをはく。 主役のおいらんを目立たせるための工夫であり、大きな台形の桐下駄をはいて転ばずに歩けるよう、軽い桐を材としており、足を引き立たせる下駄でもあった。

桐の道化師下駄

静岡県島田市に大正四年頃、旅回りのサーカスがやってきたが、この時に道化師が綱渡りにはいたのがドウケシゲタである。 平面が小判型の四センチもある厚板の中央裏に、高さ四十五センチもある桐の丸太をとりつけ、台の側面に赤木綿を下げたものと変わっている。

新潟県の桐下駄

南魚沼群大和町大崎には、桐のコウラ(台)に高さ21センチの台形の杉歯を二枚差した差歯高下駄のオオゲタがある。ここは雪菜の産地で、畑の畝間に雪解かしの清水を流して引き抜くとき、足が濡れて冷たいので、三月上旬にはかれた。桐は水濡れに軽く、歯が高いので仕事がしやすかった。

桐台のナシゲタ

白根市は江戸時代の文化年間(1804から7年)から、梨栽培が行われているが、江戸の昔から梨の間引きや袋掛けに背丈を補うはきものとして、桐台に杉歯のナシゲタがはかれて来た。

桐の浜げた

新潟県の日本海岸、柏崎市から糸魚川市、更に富山県魚津の漁村にハマゲタが江戸の昔からはかれている。ここでも水仕事なので軽く減りにくい、足ざわりがよいなど桐の特性が生かされている。桐は衝撃を緩和する役目も持っていた。

桐の雪下駄

新潟県上越地方にユキゲタ(ハコゲタ)が江戸の昔からある。雪国の桐下駄が使用者の注文を聞き雪が挟まらず、雪に埋らず転ばない軽い下駄として創作された、越後独特の雪下駄である。





桐げたの輪積みトンネル
桐げたの輪積みトンネル
桐の博物館入り口











桐げた体験コーナー
桐げた体験コーナー










桐 雪下駄
桐の雪下駄










桐 道中下駄
桐の道中下駄










桐スケート下駄 
桐スケート下駄









桐 道化師下駄
桐の道化師下駄










桐の八つ割り下駄
桐の八つ割り下駄










桐の浜下駄
桐の浜下駄










桐さらしめ下駄
桐さらしめ下駄